ビートたけしさんに学ぶ`死生観`
1. 死生観とは?
‘死‘と聞くと、どんなイメージを持っているでしょうか。
病室やロッカーの番号に「4」がないのは、「4」が「死」を連想させて縁起が悪いから、と言われます。そんなことは関係ない、ということは頭で理解していても、誰しも考えたくないことだからでしょう。
しかし、今も昔も、人生に大切なことを教えてくれる考え方として「死生観」があげられます。死生観とは、「死を通した生の見方」ということですが、つまりは死を通して人生にとって大切なものは何か、ということを考えるということです。
芸人としても、映画監督としても有名なビートたけし氏は、かつて死にかけた体験から死の重要性を語っています。1994年8月2日、原付バイクで東京都新宿区を走行中、自損事故を起こし重傷を負いました。カーブを曲がりきれずガードレールの鉄柱に激突してしまったのです。4メートルも吹っ飛ばされて頭を強打し大出血、意識不明のまま病院に救急搬送となり、生死の境を彷徨いましたが病院内でようやく意識を取り戻しました。そのビートたけし氏が死生観について語る動画をご覧ください(4:00あたり~最後まで)
ビートたけしさんの気持ちは、たけしさんにしかわかりませんが死を意識して生を享受するという考えが大事であると言われていましたね。
死に近い体験をして生を見つめたとき、これまでの人生観が一変したり、これまでの幸せが本当の幸せだったのか考えが変わり、自分にとって本当に大切なものが見つかることが多いのです。
それはなぜでしょうか?
2. 死が人生に大切なことを教えてくれるわけ
実は死にも、それを語る立場によって2種類あるのです。
私たちが普段、観念的に考えている死は`他人の死`であって、これから直面する自分の死とは全くの別問題であったことが死に近い体験によって知らされるのです。東大の宗教学教授である岸本英夫氏は、ガンと10年間闘った体験から以下のように言っています。
自分もやがては死すべきものであることを、十分に承知している。しかも、それは、一般的な理論としてであって、現実には、しらずしらずの中に、自分だけを例外に置いている。死を我が身に即した事実として考えることは、どこまでも避けようとする。もっと具体的にいえば、自分は`まだ`死なないと考える態度を、つねに持ち続けることになる。病気が重く険悪になって来ても、もう一度は回復すると信じる。`まだ`このままでは死なないと考える。いよいよ危篤になり、死期が間近に迫れば迫るほど、その`まだ`を心の中で叫ぶ。意識のある限り、その`まだ`を主張しつづけるのである。そして最後には、意識が混濁して、問題は別の面から解決されてしまう。敵の飛行機が、頭上に襲いかかってくる。防空壕の中に身をひそめて、すさまじく炸裂する爆弾の音に身を慄わせ、しかも、次の刹那に、爆弾が自分に当って、このまま死んでしまうことは、どうも考えられない。心の中に動いているのは、`まさか`自分には当たるまいという気持ちである。もし、爆弾にあたれば、その`まさか`のままで死んでゆく(「死をみつめる心」)。
みんな、今日死ぬとは思っていないでしょう。
「明日は休日だ、何しようかな」 「来週の日曜日は、友達と遊びに行く予定なんだ」と未来の予定を立てています、明日も自分は生きていると当然のように思っています。しかし、`今日死なない`という心は`永遠に死なない`心なのです。
明日になれば、「まさか今日死ぬことはないだろう」と思うでしょう。どれだけ歳をとっても、「さすがにまだ死なんじゃろう」と思い`今日死なない`心は死ぬ直前までなくならないのです。
「ええー、さすがに今は思わなくても90歳ぐらいまでなれば今日死ぬかもしれない、って思うんじゃないの?」と思う人もいるでしょう。あなたの、その心がまさに`永遠に死なない`心なのです。90歳までは生きていられると、カンカンに信じきっている心です。
そんな心があるから、いつか直面する死を真剣に考えることができないのです。
さて、これを聞いたあなたはこう思うでしょうか?
「それじゃあ、そんな経験をしない限り大切なものを見つけられないの?」たしかに、死に近い経験はあなたに大切なものを教えてくれるでしょう。しかし、安心してください。死生観は、そのような経験だけで深まるものではありません。
どうすれば死の不安に耐えられる死生観をもつことができるのか、次回に続きます。
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